墨入りタクシーゆる~く営業中

とある地方都市のタクシードライバーの日々の雑感

オトナの世界

文筆家の世界には「タクシーの中で経験した事をネタに書くようなら小説家を廃業した方がいい」という言葉があるらしいです。どういう意味で言い伝えられている事なのかわからないけど、まあ基本的にタクシーの中で繰り広げられる会話は大半は取るに足らないセーフトピックスだし、逆にタクシーのドライバーなんて10人中8人はちょっと変わった人生を歩んでいるのが通り相場だから、言うなれば小ネタの宝庫でもあるわけで、恐らくはそういう両方の意味があるんじゃないかと想像します。

 

とは言え、一日何十人というお客さんと狭い車内で接する僕達はたまになかなかに興味深い経験をしたりします。お客さんがタクシーの中に持ち込んでくる「物語」は、確かに小説、…芸術にはなり得ない三文芝居なのかも知れないけど、時々僕達ドライバーの胸を打ちます。そんな、僕が経験した市井の人々の悲喜こもごもをを書いてみたいと思います。

 

 

地方都市のタクシーは、基本的に一方通行なんですよ、繁華街や駅などからお客さんの目的地に走り、帰りは空で帰ってくる。まれにお客さんを降ろしてすぐに別のお客さんを拾う事もあるけど、そういう事って、あればラッキー、位な事で、まあ滅多にあることじゃない。

 

某月某日。その日は結構忙しい週末で、今考えたら春の終わる頃だったと思う、夜も更けた、恐らく午前2時過ぎ、一人のお客さんを繁華街から郊外の住宅地まで運んだ。さあて戻るべ、と繁華街に向けて急いでいると、ひと気のない真っ暗な道端で女の人が手を上げている。えーこんな時間にこんな場所で実車かよ、と思いながらハザードランプを焚いて女の人の前で車を停めた。 女の人、というよりは女の子だ、まだ20代前半だろう、仕事帰りな風情で地味なスーツを着込み、少しおどおどした様子で車内に乗ってきた。 「〇〇通りの××ビルも前まで…よろしいですか?」全然いいっすよ、どうぞどうぞ、とドアを閉め、目的地に向けて走り出した。

 

僕は基本的に自分からお客さんに話し掛ける事はまずない。大江戸さんなんかは結構お客さんとお話される様だけど、僕は「寡黙な運転手」を芸風にしてるので、お客さんに話し掛けられたらそれに合わせて会話する程度だ。でもこの時はあまりに意外な場所で意外な客筋の人を拾ったので、思わず、これからご出勤なんです?と言葉を掛けた。

 

すると女の子は「今まで職場の飲み会で…タクシーで帰ってきたんですけど、さっき会社の人から電話があって…また戻るところなんです」との事。 聞けばこの春から勤め始めた社会人1年生で、本社から偉いさんが来ててもてなしの会合だった由。呼び出したのはその偉いさんだった様で、「だからどうしても断れなかったんですよ…」と、世の中に出て触れた勤め人の世界の不条理に当惑している様子だった。

 

あー、と思わず心の中で苦笑してしまった。そんな非常識な時間の非常識な理由の呼び出しにわざわざ出掛けて行くこと無いのに、このコはまだそういう処世術わからないんだな。

 

少し迷ったけど、僕は、お客さんさあ、余計なお世話かも知れないけど、こんな時間の呼び出しなんて断っていいんだよ、夜中の2時過ぎでしょ?はっきり断るのが差し障りあるなら電話に出ないとかさあ、風呂に入ってましたとか寝てて気付きませんでしたとか、言い訳なんて幾らでもあるじゃない?などと大人のズルさを話してしまった。

 

そんな話、するべきじゃなかったのかも知れない。この類の処世術なんてこれから社会に揉まれていくうちに彼女自身で、彼女のやり方で学んでいくべきものなのかも知れないから。でも、心底参っている風に見える彼女の様子を見ていたら話さない訳にいかなかった。

 

女の子は「ですよねえ…」とつぶやき、目的地に着くまでの間、愚痴にもならない、初めて触れる大人の世界で感じた戸惑いを話し続けた。不器用だけどいいコだな、って思いながら僕は彼女の話をずっと聞いていた。僕にもこんなナイーブだった頃があった筈だ。もう思い出せない位昔の事だけど。

 

目的地に近付くと、ビルの前に若い男が立っていた。「あの人の前で停めて下さい」と女の子。きっと彼女の先輩なのだろう。ハザードを焚き、クルマを停め、料金を戴き、ドアを開けた。

 

出迎えに来たのだろう、彼女に電話したのもあるいはこいつなのかも知れない。「本当に来ると思わなかったよ」と先輩風情がにやけた顔で女の子に言葉をかけた。右も左も分からない新卒の後輩の女の子一人かばえない三下だ。どんな世界にもいる類の人種だと分かっていても気分は悪かった。さっきまでのほんわりした気分は一発で吹っ飛んだが、当然一介の運転手が何か言える場面でもない。仕方ないので、ありがとうございました、の言葉に念を込めた。お客さん、これが大人の世界なんだ。でも絶対負けるなよ、と。

 

 

…と、この程度のドラマにはたまに出くわす仕事です。三文芝居かも知れないけど結構面白い。墨入りタクシー、今日もゆるく営業中です。