ミスター九州男児
田舎街のタクシー稼業にとって、年末は一大イベントだ。12月も半ばを過ぎれば、街全体のタクシーの数が足りなくなる位夜の街は賑わう。
本当にトイレに行く時間も惜しい位お客さんは拾えるし、距離も長いのが出る。
そうなると完全な効率勝負で、如何に効率良く仕事をするかがその日の営収の多寡を決める事になる。
その日もそんな年末の夜だった。繁華街の裏通りを走っていると、キャリーバッグを引いたお客さんに手を挙げられた。すかさずハザードを焚いてクルマを左に寄せ、ドアを開ける。
どうぞ!という掛け声と入れ違いに車内に入って来たのは、年の頃は僕と同じ位だろうか、作業員風の男性だった。バタンとドアを閉め、右にウィンカーを出しながら発車の合図をしつつ行き先を聞く(忙しい時は効率が命なのだ)。
するとその男性は「◯◯南バスプールまで(◯◯は僕が営業している街の名前)」と行き先を告げた。
瞬間的に僕は一度出した右ウィンカーを降ろしハザードを焚き直した。そんな名前のバスプールはこの街には存在しないのだ。
「お客さん、その名前間違いじゃないすか?自分ちょっとピンとこないです、その名前」 と聞くと、確かそう言ったんだよなあ、とボソッと話す。
チケットとかないんすか?と聞いても、電話で予約したからない、という。電話番号も分からない。
めんどくせぇの拾っちゃったかなぁ、と僕は心の中で舌打ちをした。何度も書くが、忙しい時は効率が命なのだ。1分2分のロスがその日の営収を左右する。
頭をフル回転させて考える。そう言えば南側の街外れに長距離バスの営業所があるにはある。しかしそれはただの営業所で、バスプールなんて立派な代物じゃない。ひょっとしたらその営業所の事なのか?だが駅裏のバスプール以外にこの時間に長距離バスが発着する可能性のある場所はそこしかない。
「お客さん、バスの発車時間って何時なんです?」と聞くと、0時5分、と答えた。言葉が土地の言葉じゃない。バスで地元に帰省する出稼ぎの労働者なのだろうか。
時計を見ると11時25分。行ってみてやっぱり違いました、では済まない時間だ。
僕は一瞬考えて、正直に話した。
「確かに街の南側にバスの営業所はあるんすけど、そんな名前じゃないんすよ、自分も自信ないんすよね、もしかしたらそこじゃないかも知れないんだけど行ってみますか?」
すると男性は、他人事みたいに、そうかぁ仕方ない、まず行ってみるか、と答えた。
万が一違った場合は責任取れない旨を告げてクルマを発車させた。
「…運転手さんさあ、◯◯(地名)って寒いねぇ」と男性は話しかけてきた。
今シーズンは暖冬だったが、それでも雪国の夜は冷える。その日も夕方から降り始めた雪が積もり始めて道路はすっかり白くなっている。
はあ、と気のない返事をしながらバックミラーでちらっと男性の服装を見た僕は、次の瞬間、失礼だとは思いながら思いっきりがばっと振り返った。
男性は、真冬に長袖のTシャツ一枚しか着ていない。
「お、お客さん、着てるの、それ一枚だけっすか??」
そうだよ、と男性は呑気に答える。「俺の地元じゃ冬でもこれで過ごせるんだ」。
僕は笑いを押し殺しながら、お客さん、◯◯(地名)なめてもらっちゃあ困りますよ、雪国っすよココ、気温も今は氷点下っすよ、そんな格好じゃ寒いの当たり前じゃないっすか、と返した。
「っていうか、お客さん何処まで帰るんです?」
「ん、九州。東京経由で帰るんだ」
「へえ~、九州っすか、なんでまたこんな北の田舎街まで来たんすか?」
「仕事だよ、ほら△△トンネルあるでしょ、アレ掘ってんの。途中、何処かコンビニあるかなあ、弁当買いたい」
あるっすよ、寄りますか。
悪い人ではなさそうだ。というか、何処か僕と波長が合う気もする。
営業所までの道沿いにあるコンビニにタクシーを停める。あんま時間ないから少し急いで下さいね、と言うと、ミスター九州男児は、あいよ~、とコンビニの中に入って行った。
戻ってきたミスターは、車内に入るなり、やっぱりスリッパじゃ冷てぇな、と独りごちた。
ミスターの足下を覗き込むと、僕はもう遠慮しないでげらげら笑った。
ミスターはこの雪の中、クロックス風のサンダルを履いていた。
「くっくっく、お客さん、冷たいの当たり前でしょ、この白いの何だか分かるっすよね、雪っすよユキ!ちゃんと靴履いて下さいよ、ったく」
ミスターは、だって俺、靴もってないんだもん、と子供みたいな言い訳をした。
完全に打ち解けた僕たちは、他愛ない話をし続けた。そしてふたりで笑い転げた。
「っていうかさあ、◯◯(地名)の女の子ってノリ悪いよねぇ?」
「ああ、スカしてんすよ、オレも苦手っす、九州の女の子はどうっすか?やっぱりあの時もバリバリ九州弁なんすか?気持ちいいったい、とか言うんすか?」
「やっぱりそうよねえ」
「マジっすか!聞きてぇ~」
「んな訳ねぇだろ、アホか」
ギャハハハ。
…ひとしきり馬鹿話で盛り上がった後、クルマは市街地を抜け、田んぼの真ん中を通る道に入った。両脇の田んぼは一面真っ白だ。
盛り上がっていた会話がふっと止んだ。
冷たく凍った雪道を、僕が運転するタクシーは静かに走った。車内にカサンドラ・ウィルソンのしゃがれた歌声が響く。
「…俺、こんな所でなにやってんだろ」ミスターが呟いた。
「…」
「…子供の頃、北国でトンネル掘ってさ、こんな場所で雪見るようになるなんて考えもしなかった」
…お客さん、それはオレも一緒だよ、子供の頃、こんな夜中までタクシー運転してる自分なんて想像もしなかったよ。
ホント気付いたらタクシーのステアリング握ってた、何がどうなってるんだかオレにもさっぱりわかんないよ。
まあ、意外と悪くないけどね、この仕事。でも想定外も想定外の人生だよ…
そんな思いを、車内に流れた沈黙と一緒に飲み込んで、僕は全然違う話を始めた。
「お客さん、東京には早朝着くんでしょ?着いたら何するんすか?」
「決めてないや、何しようかねえ」
「朝キャバって知ってます?いやオレも行った事ないんだけど、東京は朝でもキャバクラやってるらしいんすよ」
「何それホント?可愛い子いる店知ってんの?」
「いや、だからオレも行った事ないんですって、ってかお客さん人の話聞いてないでしょ?」
「ははは、悪い悪い、でも俺、東京に着けるのかなあ」
「大丈夫、その時はその時でオレが何とかしますよ」
もうその日の売り上げの事なんてどうでも良くなっていた。
程なくしてバスの営業所に着いた。果たして、事務所の中は明るく、人の気配もある。
「お客さん、着きましたよ」
「ありがと、んじゃちょっと行ってくるかねえ」
「オレも付いていきますよ」
営業所の職員の方との若干頓珍漢な問答の末、無事にバスに乗れる事が分かった。良かった。
いえーい、とふたりでハイタッチ。
そして、別れの時だ。
「お客さん、年明けたら戻ってくるんですか?」
「ああ、戻ってくるよ、運転手さん、俺の事忘れないでいてね」
「ってか、オレ、お客さんの事一生忘れないと思う」
ふたりでくすくす笑い合う。
料金と幾ばくかのチップを頂き、ドアをばたん、と閉め、車を静かに発進させる。
じゃあね、ミスター九州男児。また会えるといいね。
バスの営業所を出て少し進み、赤点滅の信号で一時停止する。
ふぅ、と一息つき、気持ちを入れ替える。
よし、今日はいっちょう稼ぐか。
右にステアリングを大きく切り、アクセルをぐっと踏み込む。
クルマは二度三度リアを左右に振りながら繁華街に向けて走り出した。
バックミラーを一度見ると、クルマが巻き上げた雪煙の中にバスの営業所の明かりが見えた。