墨入りタクシーゆる~く営業中

とある地方都市のタクシードライバーの日々の雑感

今生の別れ

ある朝、社内の掲示板(毎朝覗く決まりになっている)に目をやると、一枚の掲示物が目に入った。
 
「◯月◯日 △野△助 退社」
 
と書いてある。
へー、△野さん、辞めたんだ。
心に浮かぶ想いは、取りあえずそれだけ。点呼と車輌の点検を済ませ、さっさと営業所を後にする。
 
業務が終わり、洗車場に車を突っ込むと、先輩が先に営業車両を洗っていた。
「△野さん、辞めたらしいっすね」
「ああ、そうらしいな」と先輩が気のない返事を返してよこす。
「何かあったんすかね?」
「俺も良くわかんねえけどな、あの人もいい歳だったろ?会社と揉める様な人でもなかったし、潮時だと思ったんじゃねえの?」とあくまで素っ気ない。
 
僕もそれ以上この話題を引っ張る気になれず、自分の車を洗い始めた。
 
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この稼業も長くなると、こういう経験なんて両手両足の指の数じゃ足りないくらいしてきた。
というか、これ他の会社はどうなのかなあ、多分ウチだけじゃないと思うんだけど、乗務員が職を辞す時は何の前触れも無くある日突然居なくなる事が圧倒的に多い。
まあ、近しかった仲間にはこっそりと話す人もいるだろう、でもそれも辞める前に「◯島、仕事辞めるってよ」などと噂になる事はほとんどない。精々、気の利く人が、辞めた後に今までお世話になりました的に缶コーヒーを箱で置いていく程度だ。
 
だから、転勤というものも無い仕事だし、僕は今の会社で送別会というものを一度もやった事がない。一応僕らの社会的身分は、会社に所属している会社員なのだけれど、こういう所もちょっと不思議な世界だなあと思う。
 
身の上話なんかもほとんどする事がないしね、というか出来ない。それなりの過去を背負った人も少なくないから。そういう事も相まって、人と人との繋がりがとても希薄な世界なのだ。
 
 
僕もこの業界に入ってそれなりの時間が経つけど、そういう空気に慣れてしまうとそれはそれで居心地がいいと感じる時もあるのが事実だ。
ある意味、これが人の本心のひとつの形なのではないかと思う事もある。仕事の同僚との距離感は世間の常識とはかけ離れたものではあるけど、逆に「普通の」距離で仕事をしたり暮らしを営んでいる人たちの方が特異に思えてきたり。
 
まあ、ある程度の苦労はしつつも、共同体的なものを作りそれを維持していくのは、維持にかかる労力やコストを差し引いてもメリットがあるから、人間は古来からそうしてきたんだとは思う。
そして、この業界はそうした作業があまり得意じゃない人が多く集まる傾向にある事も事実だとも思う。
 
だから、ただでさえ希薄なこの世界の人間関係の色彩ははさらに薄くなっていく。
 
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僕が仕事をしている地区には1000台を優に越す台数のタクシーが登録されているのだという。こうやって改めて書いてみても結構な数だ。
それでもタクシードライバーとは不思議なもので、そこここで顔を合わせるドライバーにはしょっちゅう会う。会社も違えばシフトの形態も違う。それなのに、決まりがある訳でもないのに誰に強制されている訳でもないのに、行動パターンが似ているのだろう、まるでルーティンでもあるかの様に街のあちこちで行き逢うのだ。
会えば流石に挨拶もすれば、車も降りて雑談に興じる時もある。会話と言っても大概は「今日は調子どう?」「ああ、調子?相変わらず悪りいよ」といった具合のさして意味もない会話なのだが。
名前も知らなければ、連絡を取り合う様な関係でもないから携帯電話の番号などももちろん知らない。それでも、しょっちゅう話していれば共通の話題も出来るし、情みたいなものも生まれる。ごく稀に、それが身の上を話す関係になったりもする。些細な事で助けられたりもする。
 
 
 
そんな仲間も、ある日突然居なくなるのだ。
 
 
 
2週間くらい姿が見えなくて、でも連絡先も知らないし消息を確認するすべもなくて。
流石に変だな、と思い、件の仲間と同じ会社のドライバーに聞けば「ん?◯村か?あいつ辞めたよ、親の介護しなきゃならないって実家に帰った」とさらっと言われる。
僕はと言えば、あーそうなんすね、と返すしかなくて、流石にそれで寂しがるような関係でもなかったけど一丁前に喪失感みたいなものは覚えて。
介護しなきゃならないような親御さんがいたのも知らなかったけど、つーかオレ、奴の名前すら知らなかったんだよなあという事に改めて気付いたり。
 
 
道すがらのコンビニの灰皿の傍で休憩を取る。キツいタバコの煙を思い切り肺に吸い込んで、胸のもやもやと一緒に青空に向かって吐き出せば、真夏の太陽が「煙てえよ、バカ」とばかりに強くてまっすぐな日差しを返してくる。その光は僕には少し眩しすぎて、目眩がした僕は営業車の中に避難した。
 
しゃーない、稼ぐか。
 
気持ちを入れ替え、市街地に営業車の鼻先を向け走り出そうとした時、何処からともなく「これがこの世界のマナーなんじゃよ」という声がした。タクシーの神様の声だ。
僕は聞こえない振りをしてアクセルを踏み込んだ。